2年前、論語普及会学監の伊与田覚先生の5回連続講義を拝聴する機会がありました。当時95歳だったと記憶しています。矍鑠(かくしゃく)とした崇高なお姿は身が引き締まりました。その伊与田先生の文章があったので引用します。幼児教育にたずさわる者だからこそ、心しなければ・・・と思います。
≪中国に『小学』という古典があります。今から800余年前に朱子と劉氏澄(りゅうしちょう)という人が、四書五経をはじめとする古い書物の中から大切な教えを選出したものです。江戸時代に主流を成していた朱子学の教えとも関係が深く、武士の家庭教育、さらには一般家庭の子女教育を通じて日本人の心に深く浸透し、実践されたことで、日本人の質は格段に向上しました。幕末に日本を訪れた欧米人は、東洋の野蛮国と蔑んでいた日本人が、実際に会ってみると実に礼儀正しく、躾の行き届いていることに感嘆し、「東洋の君子国」と讃えました。列強の植民地支配から日本が独立を堅持できたのは、この教えを通じて国民が優れた人間性を育んでいたことが大きいと私は思います。 しかしながら戦後、『小学』の説く人間としての基礎教育がおろそかになったことで、日本は誠に恥ずかしい国になりました。『小学』には次の一節があります。
「古の小学、人を教うるに、洒掃、応対、進退の節、親を愛し、長を敬し、師を尊び、友に親しむの道を以てす。皆身を修め、家を齊(ととの)え、国を治め、天下を平らかにするの本と為す所以なり。」
『小学』において、まず人を教えるのに洒掃、応対、進退の大事なところ、そして親を愛し、目上の者を敬い、先生を尊び、友を親しむ。そういう道を教えるということは、自分の身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにするものとなる、と説かれています。
洒掃は掃除を意味します。日本神道の精神は、清く、明るく、直き心ですが、掃除はそうした人間が本来持っているよい資質を引き出し、人間を創る一番の基本となります。
応対は挨拶です。親が赤ん坊に毎朝「おはよう」と声をかけ続けていると、成長するに従い「おはようございます」と挨拶を返してくれるようになります。これが応対の一番の基本であり、幼い頃に習慣化すれば生涯失われることはありません。
進退は立ったり座ったり、進んだり退いたりといった作法です。禅寺を訪ねるとよく玄関に「脚下照顧」と書かれています。まずは自分の脱いだ靴をちゃんと揃えること。これが人間就業の第一歩だと説いているのです。ゆえに玄関の履物を見れば、その家の家風が概ね分かるとも言われるのです。
洒掃、対応、進退は習慣づけることが大切で、少し気が緩むと乱れてしまううちは習慣化されたとは言えません。習慣の慣は“慣れる”という字ですが、日々繰り返し実践を重ね、無意識のうちにちゃんとできるようになって初めて習慣づけられたといえるのです。
教育の現場には、家庭、学校、社会(会社)の3つがあります。よい家庭に育った子供は自ずと立派な人間に育ち、よい校風を持つ学校に入ると問題を抱えた生徒もいつの間にか良くなり、よい社風の会社に入ると意識せずして立派な人材に成長します。国にも国風があります。よい家庭、よい校風、よい社風によって日本人一人ひとりが立派に育てば、世の中がよくなり、立派な国風が形成されていきます。しかしながら今の日本は、未熟な親や、尊ぶに値しない教師も多く、無垢な子供を託すには心許ない状況にあります。これは戦後の占領政策によって、『小学』の教えなど、長年継承されてきた優れた日本精神の縦糸が断ち切られ、さらに時代を反映する横糸もいかがわしいものが蔓延してきたため、国としてまともな織物を紡ぎだせなくなったのです。
『論語』に、「性、相近きなり。習、相遠きなり」という言葉があります。もともと人間一人ひとりに大きな違いがあるわけではなく、誰もが相近きものです。しかしながら、躾や教育によって身についた習慣により、人間的に大きな差がついてくるものだという教えです。
今一度断ち切られた縦糸を繋ぎ直し、よい横糸と組み合わせ、日本に相応しい素晴らしい織物を創っていかなければなりません。そのことを通じて次代を担う子ども達を立派に導いていくことが、今を生きる私たちに課せられた重大な任務ではないでしょうか。≫