ふるさとだより

異年齢クラスの日誌から

2013/06/20

3~5歳の異年齢クラスのある日(先週)の日誌(一部)です。異年齢クラスのメリットが出ているものだったので紹介します。保育士の“見守り”があったからこそだと思います。

≪ おやつの時間の出来事。 帰りの準備の後、テーブルを拭きながら人数を数えてグループ分のおやつを取りに来るのは年長児の役割。好きや嫌いな子の人数もしっかり聞いて教えてくれる頼もしい存在になってきた。ジュースの分配も頭を使っているようで、均等になるよう少しずつ全員のコップに入れたりもできる。

「いただきます。」まではテーブルの中央に置いてこぼさない工夫もできている。それでも失敗した時は“雑巾とふきん”の区別をして拭けるようになった。

先日、年少児のA男が豆乳のほとんど全部をこぼしてしまった。グループ内は飲み終えた子もいて、お替り分もない。

その時に、飲み終えていなかった年長のK子は「A君にあげようか?」とコップに入れてあげた。誰に言われたわけではないのに、何という配慮・・・。それを見ていた隣のグループのH子は、自分のグループのお替り分をK子に分けてあげていた。優しさの輪が広がっている様子を見ることができ、それぞれの子どもの成長を感じると共に、このような優しさを受けた年中・年少の子が他の子に対して今の行動を見習って、次はやってあげる側になってくれるだろうと思う。    さりげない優しい行動…「花さき山の花が咲いたね!」と、子ども達と話し合った。≫

両陛下の生き方から学ぶべきもの

2013/06/19

第125代明仁天皇陛下、美智子皇后陛下の侍従長として10年半にわたってお仕えされたのが渡邉允(前侍従長)
氏です。10年半を振り返った文章があったので、紹介します。

≪私が十年半お仕えしてきた中で、両陛下の生き方から数多くのことを学ばせていただきましたが、
特にここでは二つのことを挙げたいと思います。
一つは、決して物事を蔑ろにしたり、いい加減にしたりなさらないということです。
陛下のご公務の一つに、閣議で決まった法律や条約の批准書などを認証なさるという国事行為があります。
閣議が終わると内閣の事務官が分厚い書類を入れた箱を持ってくるのですが、陛下はそれをすべてご覧になって、署名や捺印をされるのです。
形式的な行為と思われるかもしれませんが、その膨大な書類一つひとつにきちんと目を通され、分からないことがあると質問なさることもあります。
どんな小さなことであってもその一つひとつのことに時間とエネルギーを費やし、きちんと向き合って誠実に対応される。
両陛下のその姿勢は多くの外国人にも強い印象を与えています。
昭和六十二年、両陛下が皇太子皇太子妃の時に、アメリカをご訪問されました。
そこで両陛下のお世話をしたアメリカの儀典長が後に出版した自身の回想録の中で、次のように書いています。
「両殿下は、レセプションではゆっくりと人々の間を歩かれて、 顔を合わせた人と表面的な挨拶ではなく
 本物の会話をなさっていました。
 質問をしては、その答えに実際に聴き入っておられ、 人々が群れ寄ってくるのにも気がつかれないようでした」
「ワシントンのホスピスで、 妃殿下が老人の一人ひとりに示された優しさに 心を打たれました。
 実はこの時だけは仕事中に涙が出て、 止めるのに苦労しました」
常に本気で質問をなさり、本気で話を聞いておられる。私自身、両陛下のこの姿勢には感動を禁じ得ませんでした。
もう一つは、非常に勤勉でいらっしゃるということです。
那須の御用邸にご静養に行かれても、必ず近くの農家を見に行くとおっしゃって、農家の人々を激励されています。・・・どこに行ってもぼんやり休むということは決してありません。

ご公務にまい進される陛下の根底になるものーそれは「国民のために」という思いに他なりません・・・・≫

このようなお姿は、国民はもっと知るべきだと思います。機会があったらまたお知らせしたいと思います。

奇跡のリンゴ

2013/06/18

下妻イオンシネマで上映中の『奇跡のリンゴ』を見てきました。不可能と言われていたりんごの無農薬栽培。誰でも挑戦することはできると思います。しかし、近所の農家の人たちからも村八分状態、軽トラックやバイクも手放し、冬は出稼ぎに行き、貯金も底をついて、しかも10年間も・・・。ここまでできる人は、まずいないと思います。木村さんは本当にすごい人だと思います。奥さんも凄い!木村さんはお婿さんですが、そこの義父さんも支えてくれた我慢の方だと思います。

無農薬栽培のリンゴの木は年々衰弱し、もう農薬も使えない状態になり、もう絶望の淵に立ち、自殺まで考えた・・・。首をくくるロープを木にかけ損ねた時、森の中に1本の元気なリンゴの木を見出すのです。

そのリンゴの木は、開墾されないまったく自然のままの状態。草は生え放題、虫や微生物の宝庫となって、ふかふかの土だったのです。そこで初めて自然界の仕組みに気づき、長い長いトンネルを抜けることになるのです。

無農薬栽培10年目に、やっと待望の花が咲き、周りの農家の人たちの見る目が違ってくるのです。しかし、義父さんは帰らぬ人に・・・。

涙なしには見られない感動の映画です。多くの方が観て、農薬を使う方が少しでも減ってくれたらいいと願っています。

父の日によせて

2013/06/17

今日は梅雨の中休み・・・。木陰はとても気持ちのいい日だったので、3~5歳の異年齢クラスは、園庭でお弁当をいただきました。月に1回のおべんとうデー。お母さん方が我が子の為に一生懸命作ってくれた愛情が伝わるお弁当でした。

坂晃氏(ケミコート名誉会長)のお話です。感動したので紹介します。

「親が生きているうちに親孝行を・・・」は当然のことですが、私もそうですが、すでに父親を亡くしている場合、「偲ぶことも親孝行となる」そうです。
昨日は父の日でしたので、父親に思いを寄せながら以下をお読みいただけましたら幸いです。
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≪ この夏の七月二十九日、弔問のため九十九里に赴いた。 弔問客は四十人くらいであったが、 私にとってこの葬式は、抑えがたい悲しみと感動が相俟って心に強く焼き付いた。
 故人は、当社社長・中川の義弟・菊崎氏である。
 中川の説明によると、故人は四十九歳。 妻(中川の妹)、高校三年の息子、
 そして中学二年の娘を残して逝ってしまったのである。
  故人は二十五日日曜日の昼過ぎに、 不運にも誰もいない自宅で倒れてしまったという。
 奥さんはその日たまたま仕事に出ていた。 成東高校の三年生で、サッカー部のキャプテンを務める長男は、 練習のためやはり出ていた。 片貝中学二年の長女も、所属するバスケットボール部の活動で出かけていて、 家族全員留守の間の出来事であった。
  私が中川からその知らせを受けたのは、翌二十六日の朝であった。
 午後には、通夜は二十七日の夜、葬儀は二十八日と決まったようだ。
 ところが、夕刻過ぎに再び中川から電話が入った。
 「実は、誰もいない所で死んだ場合は、 司法解剖をしなければならないそうです。
  ですから、まだ葬式の日程を決められませんので、  決まり次第また連絡いたします」 とのことだった。
 司法解剖の結果、死因は心不全と分かった。 日程を改め、通夜は二十八日午後七時、
 葬儀は二十九日午前十一時から行われることになった。
 その間、中川から菊崎氏の横顔を少し聞かされていた。
 北海道出身で、高校時代は野球部に所属し、優秀な選手であったこと。
 高校卒業後は野球ではなく、料理の修業のためにドイツへ三年間留学したこと。 お酒が好きだったこと……。
 それにしても、四十九歳という若さで亡くなった。 本人の無念を思うと、心が痛む。
  二十九日は、小笠原諸島付近に大型の台風があって、 珍しく西にゆっくり進んでいるとのことだった。
 その影響で、朝のうち房総半島は 時折にわか雨に見舞われる悪天候だったが、 十時前には雨も上がり、
 びっくりするほど澄み切った青空が広がった。
  十一時少し前に、葬式の会場である九十九里町片貝の公民館に入った。
 会場の大部屋は畳敷きで、棺の置かれた祭壇の前には、 すでに遺族と親戚の方々が座していた。
 私は中川夫婦に黙礼をして後方に並んでいる折りたたみ椅子に腰掛けた。
 祭壇の中央では、故人の遺影がこちらを向いてわずかに微笑んでいる。  
 ドキリとするほど二枚目で、その表情からは男らしさが滲み出ていた。
 会場には私のほかに高校生が五、六人、 中学生の制服を着た女の子が数人、
 そして私のような弔問客が三十人くらい座していた。
  葬式は十一時ちょうどに始まった。
   しばらくして全員の焼香が終わると、 進行係の人がマイクでボソリと「弔辞」とつぶやいた。
 名前は呼ばれなかったが、前列の中央に座っていた高校生らしい男の子が立った。
  すぐに故人の長男であることが分かった。
 私には、彼の後ろ姿しか見えないが、手櫛でかき上げたような黒い髪はばさついている。
 高校の制服らしき白い半袖シャツと黒い学生ズボンに身を包み、白いベルトを締めていた。
 彼はマイクを手にすると故人の遺影に一歩近づいた。
 「きのう……」。 言いかけて声を詰まらせ、気を取り直してポツリと語り始めた。
 「きのうサッカーの試合があった。見ていてくれたかなぁ」。
 少し間をおいて、  「もちろん勝ったよ」。
 二十八日が葬式であったら、彼は試合には出られなかった。
 司法解剖で日程が一日ずれたので出場できたのである。
 悲しみに耐えて、父に対するせめてもの供養だとの思いが、
「もちろん勝ったよ」の言葉の中に込められていたように思えた。
「もう庭を掃除している姿も見られないんだね、 犬と散歩している姿も見られないんだね」
 後ろ姿は毅然としていた。 淋しさや悲しみをそのまま父に語りかけている。
「もうおいしい料理を作ってくれることも、 俺のベッドで眠り込んでいることも、もうないんだね……」
 あたかもそこにいる人に話すように、
「今度は八月二十七日に試合があるから、上から見ていてね」
 その場にいた弔問客は胸を詰まらせ、ハンカチで涙を拭っていた。
「小さい時キャッチボールをしたね。 ノックで五本捕れたら五百円とか、十本捕れたら千円とか言っていたね。
 二十歳になったら『一緒に酒を飲もう』って言ってたのに、 まだ三年半もある。
 クソ親父と思ったこともあったけど、大好きだった」
 涙声になりながらも、ひと言、ひと言、ハッキリと父に語りかけていた。
「本当におつかれさま、ありがとう。 俺がそっちに行くまで待っててね。さようなら」
 息子の弔辞は終わった。
 父との再会を胸に、息子は逞しく生き抜くだろう。≫

生ごみ&EMの力

2013/06/14

稲の苗です。子ども達が植えた苗が残ったので、厨房の裏に栄養士たちが植えたものです。緑と白の容器に植えましたが、もちろん左側の緑の容器は、EMボカシをたっぷり使った生ごみリサイクル土です。同じ日に植えたのに、その違いは一目瞭然。

又、先日、6月11日のブログで野菜の現状態をお知らせしましたが、その時僅か5~6㎝の小さなキュウリが、今朝は20㎝程に成長して初収穫ができたので、この成長の速さに驚いています。やはり土台となる“土”が大事なのですね。