長年、日本代表やJリーグチームの監督として日本のサッカー界をリードしてきた岡田武史(FC今治オーナー)さん。
現在は、愛媛県の今治の地から、日本サッカーの新たな礎をつくるべく日々奮闘されています。
そんな岡田さんが監督時代に体験した、遺伝子にスイッチが入った瞬間を感じたというエピソードをご紹介します。
《サッカーが注目を集めたのはJリーグができて以降ですからね。
その頃の僕は、午前中は丸の内で仕事をして、昼食後は東海道線に乗って横浜で練習をするという生活でした。
最初のうちは食べていくのがやっとで、家内と二人、六畳一間のアパートで生活費を
切り詰めながら暮らしたのも懐かしい思い出です。
実はそういうサッカー生活の中で、僕は遺伝子のスイッチを入れることに気づく体験をするんです。
僕は1998年のW杯予選の途中、加茂周さんの更迭でいきなり監督に選ばれたんですね。
41歳でしたが、コーチはやっていても監督の経験はゼロでした。
だから、ものすごいプレッシャーで、成績が振るわなかった時は「こんなやつが監督で勝てるはずがない」
とバッシングも大変でした。
電話帳に載せていただいたせいで自宅は脅迫電話が鳴りやまなくて、最悪の時は家の前を24時間、
パトカーが守っていたくらいなんです。
冗談みたいな話ですが、本戦出場を賭けた最後のチャンスとなったジョホールバルの試合の前、
「もし勝てなかったら俺は日本に帰らない。海外に住むからな」と家内に電話をしていました(笑)。
ところが、そんな時にふと思ったんです。
「日本のサッカーが俺の肩にかかっている? それを俺だけで背負えるわけがない。
もちろん、明日のイラン戦は すべてを出して命懸けで戦う。
だが、それが駄目でも俺の責任じゃない。 俺を選んだ会長の責任だ」と(笑)。
変な話ですけど、そう思った途端、完全に開き直って怖いものがなくなったんです。
「人間は誰でも素晴らしい遺伝子を持っている。そこにスイッチを入れられるかどうかだ」
という村上先生の言葉が頭に浮かんだのもこの時です。》