2014年 1月

まごわやさしい

2014/01/22

日頃からの養生として、食生活については、みなさんご存知でしょうが、先ず「ま・ご・わ・や・さ・し・い」です。ま(まめ)ー豆類、ご(ごま)ー種実類、わ(わかめ)ー海藻類、や(やさい)ー緑黄色野菜・淡色野菜・根菜、さ(さかな)ー魚介類、し(しいたけ)ーきのこ類、い(いも)ーイモ類を中心にした食生活のことです。私の母方の祖母は、昨年百歳で他界しましたが、いつもこの「まごわやさしい」を食べていればいいんだよが、口癖でした。   次に、よく噛むことだと思います。食生活で最も大事なことはというと、何を食べるかよりも「噛むこと」を上げる方は多いです。一口入れたら30回(ありがとうございます×3回唱える)噛むことを意識していきたいです。

外遊び・大好き!

2014/01/22

大寒に入り、これから2月の上旬までが、一年で一番寒さが厳しい時期だそうです。

いちご組のお友だちも、何人か熱を出してお休みをする子がでています(>_<)

毎日全員が登園できるよう、体調管理には十分留意していきたいと思います。

さて、今日は外遊びの様子を紹介したいと思います。

歩くことが出来るようになり、行動範囲がぐんと広くなり、遊びもどんどん変わってきました。

今の人気は”すべり台”、階段をゆっくりゆっくり上り、上れたことに満足(*^_^*)

そして、シューッとすべって楽しんで、またまた大満足。何回も何回も繰り返し遊んでいますよ。

また、以上児との関わりもでてきました。

三輪車に乗って、とてもうれしそうです。

これから、ますます色々なことに挑戦していき、できる事をたくさん増やしていこうね。

まさよ:記

 

 

 

「緑の父」と呼ばれる日本人

2014/01/21

杉山龍丸という人物をご存じでしょうか。
インドで「緑の父」と尊敬される日本人ですが、その名前や功績は殆ど知られていないと思います。
私財を投じ、不毛の地と言われたインドに植林し、稲作や農作物ができる土壌に変え、多くのインド人を飢餓から救いました。
「グリーンファーザー・杉山龍丸」の感動的な記事(ご子息の杉山満丸氏の記事)があったので紹介します。
  ≪父・龍丸が初めてインドを訪れたのは昭和37年、43歳の時でした。
数か月にわたりインド国内の現状をつぶさに見て歩きました。
同年12月、パンジャップ州の総督と面会した際、「インドの生活を豊かにするためには どうしたらいいか」という質問に対し、龍丸は「木を植えることです」と答えます。
当時、インドは食糧不足で、街には物乞いの人が溢れ、餓死者も後を絶たない状況だったのです。
原因はインドの砂漠化でした。インドは古代より森の木を切り倒し文明を開いてきたため、土地がやせ、大地の水がなくなり、地面が乾燥し、不毛の地となってしまっていたのです。
龍丸はパンジャップ州の植林事業の指導を引き受けることになりました。
周辺の地形を調べると、首都デリーからアムリッツァル市までの約470kmの国際道路は北側のヒマラヤ山脈と並行していることに気づきます。この道路に沿って木を植えていけば根が地下に壁のようなものをつくり、そこにヒマラヤに降った雨を溜めることができ、
大地に水分が蓄えられ、穀物や野菜を育てることができると考えたのです。
植えるのはユーカリにしました。根が深く伸び、生命力も強く、何より成長が早い。
さらに成長すればパルプや建築資材として売れることも魅力でした。
それから間もなくのことです。
龍丸の下にインドで大飢饉が発生したとの連絡が入ります。この飢饉は3年にもおよび、実に500万人もの餓死者が出ました。
「この飢饉を救う方法を教えてください」
インドにいるガンジー翁の弟子たちからの懇願に、龍丸は黙っていられませんでした。
活動資金をつくるため、父の茂丸、祖父の久作から譲り受けた4万坪の杉山農園の土地を切り売りすることに、なんの躊躇もありませんでした。
再びインドへ渡った龍丸は、何百、何千という餓死者の亡骸と、生きるために物乞いする子供たちを目の当たりにし、
「この地獄から一刻も早く 人々を救わなければならない」と、改めて一刻も早く木を植え、森をつくることを誓ったのでした。
ユーカリの植林事業はデリーからアムリッツァルまでの470kmの国際道路沿線両側に、2本ずつ、4m間隔で植えることにしましたが、
当然現地の人たちの協力が必要になります。
最初は突然やってきた日本人の申し出に訝る人たちも多かったことでしょう。
しかし、龍丸の説得により地域の農民たちを巻き込んでの植林事業はスタートしました。
「タツマルは私たちの心と話した」とは、一緒に木を植えた方からの言葉ですが、私心のない龍丸の情熱が言葉の壁を超え、彼らに伝わったのでしょう。
そうして、7年の歳月をかけて470kmものユーカリの並木が完成し、その周辺の土地は水分を含んだ土壌に代わっていきました。≫

それからまだまだ彼の挑戦は続きますが、この辺で・・・。

実習生に遊んでもらったよ♪

2014/01/21

昨日から、短大1年生の男子学生さんがみかん組で実習しています。子ども達は、誰も人見知りしないでオムツを替えてもらったり、一緒に昼食を食べたりして過ごしています。コーナー遊び時には、みんな側に行って膝に抱っこしてもらったり、絵本を読んでもらったり・・・子ども達は大喜びですヽ(^o^)丿

外に出る準備の帽子を被る時も、「やって〰」とかけ寄っていました。

いつもよりちょっぴり甘えてやってもらったり、側で見守ってもらったり・・・この2日間で、お兄さんが大好きになりました♡  雅子:記

不撓不屈

2014/01/20

今月16日、91歳でその生涯を閉じた元陸軍少尉・小野田寛郎さん。
終戦から29年もの間、任務解除の命令が届かなかったため、フィリピン・ルバング島で戦い続けていた小野田さんが帰国したのは
1974年のこと。
その時、小野田さんが見せた直立不動の敬礼の姿はサムライのようだと、日本中に大きな衝撃を与えました。
帰還後、ブラジルで牧場を経営したり,「小野田自然塾」を開くなど精力的に活動。
90歳まで腹筋運動による筋力トレーニングに励んでいたといいます。
小野田寛郎(元陸軍少尉)さんが語った「極限を生き抜く心の持ち方」の記事を紹介します。        

≪・・・30年間で発熱は2回でした。それは仲間が負傷して、介護疲れでちょっと出しただけです。
熱が出たところで、医者も薬もないですから、まずは健康でいることが大事です。
そして健康でいるには頭をよく働かせなければダメです。
自分の頭で自分の体をコントロールする。健康でないと思考さえ狂って、消極的になったりします。
島を歩いていると、何年も前の遺体に会うこともあるんです。
それを埋めながら、「早く死んだほうが楽ですね」と仲間に言われ、本当にそうだなと思ったこともあります。
獣のような生活をして、あと何年したらケリがつくか保証もないですし、肉体的にもそういつまでも戦い続けるわけにもいかない。
いずれはこの島で死ななきゃいけないと覚悟しているので、ついつい目の前のことに振り回され、
「それなら早く死んだほうが……」と思ってしまう。
結局頭が働かなくなると、目標とか目的意識が希薄になるんです。
──(しかし、最終的にはそのお仲間にも 先立たれお一人になられましたよね。
  たった一人の戦いはまた別のつらさがあったでしょう。)ー
よく孤独感はなかったかと聞かれましたが、僕は孤独なんていうことはないと思っていました。
22歳で島に入りましたが、持っている知識がそもそもいろいろな人から授かったものです。
すでに大きな恩恵があって生きているのだから、決して一人で生きているわけではないのです。
一人になったからといって昔を懐かしんでは、かえって気がめいるだけですから、一人の利点、それを考えればいいんです。
一人のほうがこういう利点があるんだと、それをフルに発揮するように考えていれば、昔を懐かしんでいる暇もなかったです。
(中略)
自然塾の敷地には「不撓不屈」と書かれた石碑があります。
僕は日本の子どもたちには、一度目標を持ってことに立ち向かったら、簡単に諦めない、執念深く、しぶとく、くじけずに頑張ってほしい。
そして誇りを持って、優しい日本人であってほしい。
その願いを込めて、不撓不屈の文字を刻みました。
それは僕自身が貫いてきた人生の信条であり、座右の銘でもあります。≫