2011年 11月

支援物資

2011/11/30

気仙沼市に定期的に送っていますが、今年最後の支援物資のお願いです。先日保護者向けにメール配信させていただきましたが、今回は洋服ではなく、大人用の下着・パジャマ・手袋・マフラー・靴下等を希望されています。仮設住宅で押入れも小さいので、洋服類は今のところ足りているとのことです。被災地の方々は仕事がなかったり、家族が離れ離れだったり、まだまだご苦労がいっぱいです。私たちに今できる事をできる範囲でやっていくことが大切だと思います。来週早々には送りたいので、ご協力をいただける方はよろしくお願いいたします。明日は、放射能とワクチンに関する杉本先生の勉強会です。9時半よりホールにて。

今日のコーナーあそびは・・・?!

2011/11/30

 おいしい給食の後は、大好きなコーナーあそびです。トイレを済ませ、ござに全員集合し、今日のコーナーあそびをみんなで相談して決めます。

さて、本日は、

 高く積み上げては、壊すダイナミックに遊びます。

 ギザギザブロックコーナーでは、出来上がった作品をみんなで見せ合い大満足!!

 レゴブロックコーナーでは、「これ、きょうりゅうなんだ!」と大作も完成。

 そして、ままごとコーナーでは、スカートをはいてお母さんに変身し赤ちゃんのお世話をしたりと、おもいおもいに、お友だちと関わり合いながら楽しい時間を過ごしています。

       関口:記

公開授業

2011/11/29

杉原千畝(すぎはらちうね)。第二次世界大戦のさなか、ナチス軍の迫害から逃れるため集まってきたユダヤ人に、日本通過ビザを大量発給した人です。自分の身の安全も顧みず、彼がとった行動は本当に立派です。彼の奥さんも全面的に従ったことから、奥ゆかしく、意志の強固な女性と思います。それによって約1か月の間に6千人とも8千人ともいわれる人命を救ったのです。日本人の誇りです。

・・・下妻市豊かな心育成推進協議会というのが設置されていて、各小学校・中学校・高等学校の代表者と、保育園・幼稚園から各1名ずつがその委員になっていて、任期は2年で、昨年と今年、当園が保育園代表で委員になっています。昨日は下妻第二高等学校の道徳の公開授業を見せてもらう機会に恵まれ、行ってきました。そこで、1年生の道徳で杉原千畝が題材になっていたというわけです。1組から7組まで同一の指導案でしたが、教師によって進め方はまちまちだったようです。たまたまあるクラスの教師が同級生ということもあって、そのクラスだけを見せてもらいました。彼は歴史の教師でもあるので、その背景も語ってくれ、とても分かりやすく、テンポがよくぴったり授業時間内に一応終えるところはさすがだと思いました。

日本人として、杉原千畝のような人物を取り上げるということは、とてもよかったと思いました。しかし、授業中生徒たちは完全に受け身で、指名されれば答える、しかも小声で・・。姿勢も気になりました。

自分の考えがしっかり言える、ということはとても大事ですが、ディスカッションをして、他人の意見にも耳を傾け、自分の考えがいえる・・・ということができるようにならなければ、これからの国際人としては通用しないと思うのです。

保育園ではサークルタイムを時々取り入れていますが、これからも継続して行きたいことだと改めて思いました。

発表会に向けて♪

2011/11/29

先々週から、ついに発表会の練習が始まりました。

今年のめろん組は、子ども達が大好きな「エビカニクス」という体操の劇あそびに決まりました。

役柄はエビ、カニ、貝、クラゲ、サメ、司会者です。

子ども達が自分は何役をやりたいか考え、決めました。

練習は今日で5回目ぐらいですが・・・すでに自分のセリフを覚えている子も!!

子ども達の吸収力に私達もびっくりです!!

最近、練習の量も増えてきましたが、子ども達はとても楽しく、やる気満々で練習してくれています。

もちろん、子ども達に負けないくらい子ども達もやる気満々!!

完成に向けて、楽しく頑張っているめろん組でした♪

                                  記:千鶴

感動する話

2011/11/28

長崎の畑の指導者、吉田俊道先生から、こんな素敵な話が送られてきたので、紹介します。

“俺には母親がいない。
俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。
産まれたときから耳が聞こえなかった俺は
物心ついた時にはもうすでに簡単な手話を使っていた。
耳が聞こえない事で俺はずいぶん苦労した。
普通の学校にはいけず、障害者用の学校で学童期を過ごしたが、
片親だったこともあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから何を言われたか覚えていない(というか知らない)が
あの見下すような馬鹿にしたような顔は今も忘れられない。
その時は、自分がなぜこんな目にあうのかわからなかったが、
やがて障害があるということがその理由だとわかると
俺は塞ぎ込み、思春期の多くを家の中で過ごした。
自分に何の非もなく、不幸にな目にあうのが悔しくて仕方がなかった。
だから俺は父親を憎んだ。 そして死んだ母親すら憎んだ。
なぜこんな身体に産んだのか。
なぜ普通の人生を俺にくれなかったのか。
手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えて叫んだ。
ときおり爆発する俺の気持ちを前に、父は抵抗せず、
ただただ、涙を流し「すまない」と手話で言い続けていた。
その時の俺は何もやる気がおきず、荒んだ生活をしていたと思う。
そんな生活の中での唯一の理解者が俺の主治医だった。
俺が産まれた後、耳が聞こえないとわかった時から、ずっと診てくれた先生だ。
俺にとってはもう一人の親だった。
何度も悩み相談にのってくれた。
俺が父親を傷つけてしまった時も、優しい目で何も言わず聞いてくれた。
仕方がないとも、そういう時もあるとも、そんな事をしては駄目だとも言わず、
咎める事も、慰める事もせず聞いてくれる先生が大好きだった。
そんなある日、どうしようもなく傷つく事があって、
泣いても泣ききれない、悔しくてどうしようもない出来事があった。
内容は書けないが、俺はまた先生の所に行って相談した。
長い愚痴のような相談の途中、
多分 「死にたい」 という事を手話で表した時だと思う。
先生は急に怒り出し、俺の頬をおもいっきり殴った。
俺はビックリしたが、先生の方を向くと、さらに驚いた。
先生は泣いていた。
そして俺を殴ったその震える手で、静かに話し始めた。
ある日、俺の父親が赤ん坊の俺を抱えて先生の所へやってきたこと。
検査結果は最悪で、俺の耳が一生聞こえないだろう事を父親に伝えたこと。
俺の父親がすごい剣幕でどうにかならないかと詰め寄ってきたこと。
そして次の言葉は俺に衝撃を与えた。
「君は不思議に思わなかったのかい。 君が物心ついた時には、もう手話を使えていたことを」
たしかにそうだった。
俺は特別に手話を習った覚えはない。
じゃあなぜ・・・
「君の父親は僕にこう言ったんだ。
『声と同じように僕が手話を使えば、
この子は普通の生活を送れますか?』
驚いたよ。
確かにそうすればその子は、声と同じように手話を使えるようになるだろう。
小さい頃からの聴覚障害はそれだけで知能発達の障害になり得る。
だが声と同じように手話が使えるのなら、
もしかしたら・・・
でもそれは決して簡単な事じゃない。
その為には今から両親が手話を普通に使えるようにならなきゃいけない。
健常人が手話を普通の会話並みに使えるようになるのに数年かかる。
全てを投げ捨てて手話の勉強に専念したとしても、とても間に合わない。
不可能だ。僕はそう伝えた。
その無謀な挑戦の結果は、君が一番良く知ってるはずだ。
君の父親はね、何よりも君の幸せを願っているんだよ。
だから死にたいなんて、言っちゃ駄目だ。」
聞きながら涙が止まらなかった。
父さんはその時していた仕事を捨てて、俺のために手話を勉強したのだった。
俺はそんな事知らずに、たいした収入もない父親を馬鹿にしたこともある。
俺が間違っていた。
父さんは誰よりも俺の苦しみを知っていた。
誰よりも俺の悲しみを知っていた。
そして誰よりも俺の幸せを願っていた。
濡れる頬をぬぐう事もせず俺は泣き続けた。
そして父さんに暴力をふるった自分自身を憎んだ。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。
あの人は俺の親なのだ。
耳が聞こえないことに負けたくない。
父さんが負けなかったように。
幸せになろう。そう心に決めた。
今、俺は手話を教える仕事をしている。
そして春には結婚も決まった。
俺の障害を理解してくれた上で愛してくれる最高の人だ。
父さんに紹介すると、母さんに報告しなきゃなと言って父さんは笑った。
でも遺影に向かい、線香をあげる父さんの肩は震えていた。
そして遺影を見たまま話し始めた。
俺の障害は先天的なものではなく、事故によるものだったらしい。
俺を連れて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んだそうだ。
運良く父さんは軽症ですんだが、母さんと俺はひどい状態だった。
俺は何とか一命を取り留めたが、母さんは回復せず死んでしまったらしい。
母さんは死ぬ間際、父さんに遺言を残した。
「私の分までこの子を幸せにしてあげてね」
父さんは強くうなずいて、約束した。
でもしばらくして俺に異常が見つかったそうだ。
「あせったよ。お前が普通の人生を歩めないんじゃないかって
約束を守れないんじゃないかってなぁ。
でもこれでようやく、約束…果たせたかなぁ。なぁ…母さん。」
最後は手話ではなく、上を向きながら呟くように語っていた。
でも俺には何て言っているか伝わってきた。
俺は泣きながら、父さんにむかって手話ではなく、声で言った。
「ありがとうございました!」
俺は耳が聞こえないから、ちゃんと言えたかわからない。
でも父さんは肩を大きく揺らしながら、何度も頷いていた。
父さん、天国の母さん、そして先生。
ありがとう。
俺、いま幸せだよ。”